「色の感じ方・今昔」
「経営労務ディレクター2009・5~6月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著 ~
ふと周りを見渡すと、日頃私達が、いかにあざやかな色をした物に囲まれているか、ということに気づかされる。生活雑貨、携帯電話、電化製品といった日常品から街の看板やディスプレイまで、至る所で色とりどりの色に囲まれている。これからみると、色とは、物を際立たせる役目を担わされているといってよいのかもしれない。それは、いかにも私達が色に触発されて物を購入するのが当然といった状況を物語っているといってもよいだろう。
このような環境があたり前の今、昔はあざやかな色に何か近寄りがたい、「恐れ」のようなものを感じていたのだと言ってもにわかに信じがたいかもしれない。日本においても近代以前、色は天然染料で染められていた。その中で、あでやかな色とは人々の目をひきつけると同時に、人に影響を与える、何らかの不思議な力が秘められているように考えていたのではないだろうか、と言われている。
現在でも、私達は、人の顔色を見た時、特に知り合いの顔を見た際に、「今日は顔色が悪い」あるいは「顔色が良い」とか、「いつもと顔色が違う」といったことに気づくことがある。あるいは始めて会った人であっても「どことなく顔色が悪いなぁ」と思うこともある。これは、顔色がわかりやすく具体的な色を示しているからではない。むしろ、言葉では説明しにくい、でも誰もが感じるであろう微妙な色を感じるからである。
このような表面にあらわれる微妙な何かを「色」として感じている私達が、色あいの強さについて何も感じないことはありえないだろう。おそらく、日本の風土では、化学染料がまだなかった頃、あざやなか色を目にする機会は、それほど多くなかったであろうし、その中でもいくつか目にする自然の草花や一部の天然染料で染められたあでやかな色は、目が引きつけられるだけでなく、色の強さに伴うパワーを感じざるを得なかったのではないだろうか。
だからといって今の私達が、それを感じる感覚を一方的に失ったということを言いたいのではない。むしろそこには、社会環境の変化が大いに影響していると考える方がいいだろう。次々と新しい色をつくりだす技術が進み、さまざまな物の色があふれる中、色も豊富になっていけば、それなりの色環境を楽しむようになるだろうし、そこでの色による選別が行われるようになれば、物を目立たせる方向で色をアレンジするやり方は自然の成り行き上、当然登場してくるだろう。
つまり、わずかな鮮やかな色だけが目立っていたのが、鮮やかな色ばかりを目にするケースが多くなったため、色の強さに、何か特別なものを感じることがなくなったのではないだろうか。
今、色に畏怖を感じる人はいないだろう。そうした中では、どのような感覚をもって色を取り扱っていいのだろうか。全ての色を個人の嗜好によって、ありきたりのイメージによってのみ色をとらえていいのだろうか。かといって、昔のような色に対する特別な感覚を、今、同じように感じることは不可能だろう。しかし、人工的な色の世界だけでなく、自然界の色に触れることで、物に付着しているかのような記号的な色の見方でなく、もっと色の本質である微妙な色感覚に触れることができるのではないだろうか。色の移ろいやはかなさ、色が訴えかける何らかのエネルギーを、眩しいディスプレイの光の色を見続けている私達が、もし感じることができたならば、それこそ、本来の色に触れることができたと言っていいのかもしれない。
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