「色の感受性」
「経営労務ディレクター2011・11~12月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著 ~
今夏、沖永良部島に出かけた帰りのこと、ちょうど台風が近づいていた影響で、飛行機が気流の不安定な場所を通過した時だった。窓の外に虹があらわれた。それも円環の虹、そして、その虹の真ん中に飛行機の機体のシルエットが映っていたのである。かなり前に、このような虹に遭遇した人の話は聞いたことはあったが、めったに見ることができない自然現象である。大変感動した。もちろん、なぜ、このような虹現象が見えるかは解明されている。決して奇怪な現象を見たことに対しての驚きではない。
ゲーテは「五感は誤らない。誤るのは判断である。」と語っている。考えさせられる言葉である。たとえば、次のような経験をした人はいないだろうか。ある現象を見たり体験して自分の感じたことを述べると、それはあなた個人の感覚にすぎないだろう、そのような事実は、一般的には聞かれないので認めるには値しないと言って、その感覚をあっさりと否定されることがある。
実は、似たようなことを、意外な場所で経験した。2ヶ月程前に、大腸の内視鏡検査を受けた。検査終了後、1時間ほど休んだ後、帰宅して体を休めて下さいと言われたのだが、どうもお腹が張って苦しい、それを言うと、時間がたてば大丈夫だと言われ、病院をでたのだが、家まで帰る力がなく、喫茶店で体を休ませて様子をみた。しかし何とも苦しい。考えた挙句、時間がたってもこの調子では治まらないだろうと感じ、病院に電話して状態を報告した。看護師の方の回答は「皆さん、家に帰られて休んでおられます。」それに対して「家まで帰ることができないほど苦しいのです。」と言っても「皆さん、そうされています。」と言われる始末。この対応には、さすがにかちんときて「皆さん、皆さんと言われるが、体は個人個人違います。」と言って反論した結果、やっと病院にもう一度来てくださいと言われた。病院長は診断するなり、処置が必要な状態だと判断し、点滴及び痛みを緩和する薬を処方された。後日わかったのだが、この痛みの原因は、検査の際に腸内部で火傷をさせたことによるものだったらしい。このことからもわかるように、平均的な判断を個人の感覚よりも優先させるといったことを、今や医療の世界でも当たり前のように行われていることには驚きである。
このような個人感覚を、とりあえず横におき、平均的な統計結果でもって判断することは、もっぱら色彩の研究を行う場合でも便宜上と言えども行われている。しかし、当然のごとく色の見え方は、本来理屈のみで語れる世界ではない。もちろん、なぜ色が見えるのか、その色の成り立ちについて科学的側面から学ぶことも大切なことであるが、それだけでは、色を感じることは説明できないのである。たとえば、物理的に計測して同じ色のものであっても、見る角度や光のずれが少しあるだけで、それらの色は違って感じる。木々の葉の色を見れば、同じ一枚の葉の中でもちょっとした光の当たり具合で緑の葉の色が全く異なって見えてしまうのは、誰もが経験済みであろう。このような色感覚をとりたてて大袈裟に言うつもりはないが、それが感受性という感性レベルの話に深くつながるであろうことをここでは述べておきたいと思う。
色の感受性とは、誰もがもっているものである。感受性については個人の資質やレベルの問題で話のすむものではない。感受性を維持するためには、感じた色をそのまま素直に受け止めること、頭で学習した色とは違った見え方をしても、その見え自体を否定しないこと、そして、最も重要なことは、同じ色であるはずの色が異なった見え方をしても、なぜ違って見えるのか、すぐに安直な答えをだそうとはしないことである。というのは、なぜ?という問いに対して解決したと思った段階で、多くの場合、人は五感で見えたと感じることを頭で見るようになるからである。なぜ?という問いが心の中にある以上、私達はもっと観察するだろうし感度を研ぎ澄ますことだろう。鋭敏な感受性とは、まずは自らの五感を信じることから養われると言ってよいだろう。
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