「近世〜庶民が手にした色〜」
「経営労務ディレクター2013・9~10月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著〜
今回、取り上げるのは、江戸時代の色である。この時代を境に色の様相は大きく変わった。それまでは、色を扱い、色に特別な美意識をもつ者といえば主に権力者だった。それが庶民の手に渡ったのである。このことは、当時の色について考える上で重要な点である。
とは言っても幕府は、色を庶民の自由な手に委ねたわけではなかった。しかし、裕福な商人が、さまざまな色を目にした際、彼らは、どのように思っただろうか。たとえ、当時の権力者である武士から派手な色を着ることを禁じられていたとしても、自分たちの求める色を創り出し、町民たちで色のセンスを競い合い、楽しみたいと思ったのではないだろうか、と想像できる。
この当時の諺に「こうやのあさって」という言葉がある。こうやとは紺屋とよばれた染物屋であるが、紺屋と今夜をかけ、今夜であるのに明後日(あさって)というのはおかしいという意味である。その背景には約束の期日に染物ができあがらず、明日、明後日と、たびたび延期することから何事も約束の期限があてにならないことを喩えたのである。それほどまでに、染物屋の商売が繁盛していたことが伺えるだろう。つまり、庶民が色に対して、いかに興味をもっていたかが伺えるのである。
江戸時代の流行色については、映像や雑誌に残されているわけではないので、主に文学作品に書かれている内容から推察するしかない。人情本などに「抑(そもそ)もはかなきことをしるすに似たれど、時代(ときよ)の風俗を百年後(のち)の好士(こうず)に見せんとて、おさなくもかひ付ぬ」(春告鳥)と記していることからも、後世のために当代の流行の身なりを記しておこうという意識をもっていたことがわかる。
今の研究者は、そうした作品から近世の流行色について読み取っているのである。一般に、江戸時代では茶色や鼠色といった渋い色が多いと思われがちであるが、江戸時代200年以上にわたって、このような色が流行っていたわけではない。大枠の移り変わりを見ていくと、近世前期には明るい原色系の色調がみられたが、時を経て世相が落ち着いてくると、中間色といった色が多くなり、さらに元禄時代になると、さまざまな茶色が加わった。その後、庶民が豪華な遊びをする等、贅沢な生活が行われるようになったが、徳川吉宗の倹約政策に違反しないために、見かけは質素で地味なものにしたらしい。その結果、色調はくすんだものが多く見られることになった。上着には暗い茶色や鼠色の着用を余儀なくされた反動もあってか、長襦袢などには、派手で華やかな色合いが多かったという。茶色の中に路考茶や梅香茶といった色名が生まれたのは、この頃、盛んになっていた歌舞伎の人気役者の名にちなんだものである。
また、当時の美意識を語る際に「粋」という言葉がよく使われる。この「粋」という美意識は、上方から発生したらしいのだが、文献によれば、「粋」に相当する色は、まずは黒が一番であり、次に茶色の様々な色、そして鼠色が加わるそうである。逆に「粋」にそぐわない色として、浅黄などがあげられている。前述したような、上着は粗末に、下着は高価なものを着ることを「粋」といって自慢したらしい。近世の色を考える際に、幕府の倹約政策と「粋」という美意識を切り離して考えることはできないだろう。現在も「粋」という言葉は使われる。しかし、元々は制約された環境下において生れた美意識と考えれば、今で言う「粋」の感覚はそれと異なるだろう。まして今では、粋な色という言葉は耳にしない。江戸時代、庶民が手にした色とは、決して自由自在に扱えた色ではなく、ある制約の中でこそ育まれていった色なのである。
|