「エスカレートする色感覚」
「経営労務ディレクター2010・9~10月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著 ~
最近のテレビやデジカメに映し出される色画像は、ますます明るくクリアなものとなっている。都会での日々の生活は多くの照明に囲まれて、益々明るくあざやかな色の洪水状態にある。きれいでいいじゃない、明るくてわかりやすいからいいよ、というご意見もあろう。しかし、ちょっと考えてみよう。テレビで見るバラの花はとてもあざやかで、きれいで、咲き誇っている。実際に見る花はどうだろうか。よく見ると、テレビとは違ってそれほどクリアではないことに気づかされる。それをわかったとしても、私達は写真の画像にあでやかな色を求める。なぜだろうか。
記憶色といわれる言葉がある。そこには、私達が実際に見て記憶された色を後からどのような色であったかを思い出した場合、実際の色よりも明るさやあざやかさを強調して記憶する、といった性格がある。なぜかはわからないが、実際に見た色を実直にそのまま自分自身で再現することはしないのだろう。これからもわかるように、私達が現実の色よりもあざやかな色を再現させてほしいことを望むのであれば、色を提供する側は、その要望に合わせる方が喜ばれるだろう。そして、その色に慣れた私達の眼は、さらに鮮やかな色を希求するのかもしれない。
写真家の藤原新也氏によれば、私達人間の眼そのものがここ30年の間に徐々にデジタル化してきていると言う。デジタルカメラのフィルム自体も諧調の再現が狭くなり、そのためコントラストが高くなり、見た目に派手になった。それはユーザーの眼自体が、見た目に派手な映像を求めていることと無関係でないと指摘する。
生活環境の面から言えば、現在、私達は、昼であろうと夜であろうと、夏であろうと冬であろうと、建物の内にいようが外にいようが、光色に囲まれているといってよいだろう。もちろん、クリスマスのイルミネーションは心ウキウキさせるものだし、夜にライトアップされた建物も、昼間とは違った趣があって心ひかれるものがある。それだけではない。テレビ、パソコン、携帯電話、ゲーム等の発する光色に日がな一日、包まれているといってよいだろう。
その一方では、一昔前の白黒の写真を見て懐かしみレトロな感覚に浸りたい一面ももっている。決してクリアな色だけを追い求めているわけではない。しかし、日常の私達は、自然の花や草木や海を見ても、その色を自らの脳の中であでやかな色にわざわざ変換させてほんの少しの興奮を体に与えているように思える。まして、光色に囲まれている時には、そうした興奮が外から休むことなく訪れているのである。刺激をたえず体に与えているともいえる。
だからといって、人は光の中だけで生きているのではない。はるか古代の昔からその光と共にあったのが暗闇であったはずだ。このどちらだけでも世界は成り立たない。「一筋の光が見える。」といった喩は、暗闇があらかじめ想像できるから理解される。昔は暗い中に間接照明として使われる白熱電球のほんの少しの暖かな黄色は、暗闇から解放されるようなほっとした安堵感を与えてくれた。温暖化防止の策もあって、その白熱電球の製造も中止する方向にあると聞く。これからも光の姿は変化し、輝きもエスカレートしていくのだろうか。そして、派手な色をすでに派手だとは感じない私達の眼が、さらに求める派手な色を、これからもつくり続けるのだろうか。その将来、色を丁寧に感じる力が失われていくのではないか、と気付いた時には手遅れだったということになりはしないかと危惧するのである。
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