「屋外広告物の色が示すこと」
「経営労務ディレクター2014・7~8月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著〜
今春の桜満開の頃、東海道新幹線で大阪と横浜を何度か行き来した。車中から眺める桜並木が本当に美しく、日本の四季の素晴らしさを改めて実感した。 それだけに残念に思ったのは、そのような美しい自然の中に、屋外広告物の派手な色が点在し、せっかくの美しい景観を阻害している所が見受けられたことである。
屋外広告物の色が景観に与える影響については、以前から問題となっている。その解決策として、参考にされるものの一つがヨーロッパの景観である。たとえば、ヨーロッパの地域では、建築物だけでなく屋外広告物についても厳しい規制を行っている所が多い。その結果、美しい街並みが維持、形成されている。しかし、なぜ、そうした規制ができるのか、日本とヨーロッパの規制に対する国民の受けとめ方の違いについて考えなければ、単に美しいヨーロッパの街並みを羨むだけで終わってしまうのである。私は、それらの違いは市民社会としての成熟度の違い、具体的には、日々の暮らしのプライオリティに対する考え方の違いではないかと考えている。
おそらく、ヨーロッパの先進国の多くは、国の最重要課題が「経済問題」だと、力を込めては言わないだろう。もちろん、国民生活の中で経済がまわっていくことは大切なことではあるが、成熟した国ならば経済成長と声高に言うことはない。国としては、個人個人の生き方、暮らし方がまずもって重要で、そのために、当然、経済も考慮する必要がある、というスタンスである。何が何でも経済成長するために、経済を回すために、政治家だけでなく国民自身も大変熱心になる日本とは少々異なるのではないだろうか。
派手な屋外広告物も、そこには、とにかく他所よりも目立たなければ、という商売人の意識があるからだろう。その立場上、わからなくもない。彼らだけに、自分たちの商売よりも景観を考えなさい、というのは難しい。日本全体に経済優先の考えが充満している以上、致し方ない面もあるだろう。
色を扱う人間の立場から言えば、このような状況になった背景には、色を商売の道具にしてしまった社会構造に問題があると思われる。商業主義の中に埋もれた色は、色が本来もっていたであろう力を、当然失っている。 営利を目的として使われる色は、それは、ただのハリボテの色なのである。そこに色の力を感じることはできない。はっきり言えば、にぎやかな装飾の色にすぎないのが、屋外広告物の派手な色である。
しかし、それを徹底的に規制しようとした地域が日本でもある。京都である。京都市屋外広告物条例は2007年に改正され、さらに規制が強化された。これも経済を考えてのことではある。観光都市・京都としての存在価値を高めるために、外から見た京都を意識し、景観を守るために積極的な施策をとったのである。理由はどうあれ、一応評価できるだろう。加えて、京都の場合は、京都人のもつプライドの高さもある。それは、別の意味で、京都独特の市民社会であり、京都人としての暮らしを守る意識がそこにはある。
決して屋外広告物の色だけをけなしているわけではない。それは、日本人の暮らしに対する考え方の一側面が表れているにすぎない。大きく捉えると、経済と社会環境の両立をどのように扱うかは、その国の社会の成熟度を反映しているとも言えよう。高度経済成長の時代に、多くのものを犠牲にしてきたことを、私達日本人は忘れてはいない。ある一定の経済規模をもった先進国の人々は、自国の経済成長が永遠には続かないことを理解している。我々日本の市民社会も、より成熟させていきたいものである。
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