「色と国家の秩序」
「経営労務ディレクター2013・3~4月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著〜
今回は、前号の上代から時代を飛鳥~奈良へとすすめ、その当時の色彩文化について述べてみたいと思う。この時代の特筆すべき事項は、やはり国家としての統一であろう。聖徳太子が統一国家の建設をいかに目指していたかは、十七条の憲法の制定からも窺える。実は、その国の秩序を保つための方策の一つに色が利用されたことは、文化史上、重要なことである。
まず、推古天皇11年に行われた冠位(六色十二階)が、その一つである。制定にあたって、上代の末頃に伝わったとされている陰陽五行思想が基礎にある。五行思想とは、上代中国の哲学思想であったが、そこに仏教思想も加わり、日本に伝えたのは百済の僧と言われている。五行思想の五色とは、具体的には、仁に青、禮に赤、信に黄、儀に白、智に黒であり、冠位では、最上位の徳に、五色以外の紫が加わって六色となったのである。その後、大化の改新を経て647年に冠と衣服の色によって位階をあらわす制度、七色十三階ができたのだが、こうした位階によって衣服の色が制定されたのは世界でも珍しいらしい。色の順位は、上位から深紫、浅紫、真緋、紺、緑、黒の順である。各色の染料は、紫は紫草、真緋は茜草の根、紺は月草の花の汁(この当時は、まだ藍は国産化されていなかった)、緑は刈安草と月草の組み合わせで染められたらしい。つまり、国内の自然の植物が染料だったのである。その後、紺の染料については、天智天皇の頃に藍が国産化されたらしい。
冠位が伴う位色の改定は、その後、度々修正が行われている。それ自体が、国の統治の困難さを物語っているといえよう。その中で、紫が最高位に配せられた状態は変わっていない。また、同じ紫でも濃い色を上位に、浅い色を下位にして地位の軽重を表していた。時を経て、現在も、儀式に文化的意味あいが色濃く残る分野では、紫が特別な色として扱われることがあるのは、その冠位の名残とも考えられよう。
また、禁色についても触れておきたい。位色は色をもって位階を表すのに対して、禁色は、色をもってした規制である。単に、自分の位よりも高位の色の服の着用を禁止するだけではない。経済的に高価な物を利用することができたとしても、位によって許される限度があることを、色を印として規制したと考えられるのである。いかにして、国家の秩序を保持しようとしたかが窺えるだろう。
このように国家を整備する上で、色彩についても、唐の制度を採用したものが多く、大陸からの外来思想が果たした役割は大きいことがわかる。では、この当時の色彩文化は、大陸の影響の中でのみ育まれていたと考えていいのだろうか。
前回の上代の時代における色彩文化の特徴について記した中で、アニミズムの存在、色の呪力、といったものは大陸から伝来した思想とは無関係ではないだろうと推測した。その後も、唐に倣った朝廷儀式を始めとして、隋や唐からの文化的影響や仏教思想によって刺激がもたらされたものは多いだろう。その一方で、私生活に目を向けると、外来文化の影響とは関係ない面も存在する。たとえば、万葉集の中に、「春の苑くれない匂ふ桃の花下照る道に出で立つ乙女 大伴家持」という表現が登場する。色の見え方について考えさせられる表現だが、色がにほふという広がりをもたらす感覚は、国内の風土によって育まれた感性が、もたらしたものではないだろうか。いわゆる外来思想を倣った公の場とその土地の風土によって育まれた私的な自然の文化、その両方が微妙に重なり合いながら併存していたとも考えられるのである。国の内側と外側、どちらの視点から捉えるかによって、見えてくる色彩文化が異なるという点においても興味深いことである。
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