「「白」からみる日本の美の思想」
「経営労務ディレクター2011・7~8月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著 ~
私たち日本人が、西洋、東洋問わず、さまざまな絵を鑑賞する場合、そこで目にする色彩に対してさまざまな印象をもつだろうが、それは、あくまでも現在の日本文化を背景にして観察した結果である。他方、外国人は、彼らなりに、私たちとは違った感覚で絵画を見ているのだろう。フェノロサのように、日本美術に高い評価を抱いていた人ですら「日本画に足りないものは色彩だ」、「雪舟の絵には色彩が欠乏している」という不満をもつように、そこには、日本文化に魅かれても、彼らのもつ西洋の感覚がなかなか拭い去れないことがみてとれる。
ところで、日本人は長谷川等伯の絵がたいそう好きらしい。というのは、NHKが2000年に視聴者アンケートによる日本の美術作品100選の特集をしたときに、等伯の「松林図屏風」が第一位だったことからわかったのだが、関係者達も、そのことには驚いたらしい。個人的には、私も好きな絵の一つだが、昨年、東京国立博物館で開催された「等伯展」で、それを鑑賞した際には、あまりの人の多さに辟易し、味わうところまではいかなかったのが残念だった。やはり、この絵は、少し距離を置いた場所から一人で静かに眺めてみたいものである。
今回は、この絵の一つの特徴でもある余白を想像しながら「白」について考えてみようと思う。というのも、色の意味あいについて、西洋と日本で、かなり異なる様相をもつのが「白」ではないかと察すると同時に、日本の「白」については、日本独特の思想があると思われるからである。そこから日本の美の姿の一端に少しでも触れることができれば、と考える。
その「白」を象徴するものの一つとして龍安寺の石庭がある。一般的に、枯山水というのは涸れることによって水を得るという捉え方がされている。東京美術学校(現在の東京芸大)を設立した岡倉天心の言葉に「故意に何かを仕立てずにおいて、想像のはたらきでこれを完成させる」とある。次の和歌にも同様の思想がみられる。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫やの秋の夕暮れ」に、それがあらわれているだろう。これらから想像するに、日本の「白」には、あえて無の世界から有をつくりだすことを前提にした上で存在する姿が感じられる。
この点について、西洋の「白」と比較してみたらどうだろうか。「白」の時代で有名なフランスの画家ユトリロの場合を取り上げてみよう。画家が、なぜ、ある特定の色ばかりを使っているのか、を考える際の参考としては、一般的に、画家自身の人生の履歴などから、そのヒントらしきものを推測していくことが多い。ユトリロの場合も、その方法でみていくとどうだろうか。彼のモンマルトルの街を白で描き続けた背景に、早くからアルコール中毒になるほどの孤独な幼年時代、母への複雑な想い等があったことを結びつけると、自身の人生体験を無にしたいという意識があったのではないかと想像できなくもない。言い換えるならば、そこには、有から無への方向性があるとも言えるだろう。先ほどの日本の無から有とは全く逆である。
さらに、日本の「白」の場合には、そこに無常観という日本人の感覚が影響しているとも言えるだろう。だからこそ、実に多様なものが無の世界の余白の白から浮かび上がってくるとも考えられるのである。それゆえに、何も描かれていない余白が存在する日本の山水画と、キャンバスの上から白の画材を塗色する西洋画の違いが生れるのかもしれない。
「松林図屏風」に惹きつけられる多くの日本人がいるということは、私達の感性の中に、無から有という出現への暗示とも思われる「白」が潜んでいるのではないだろうか。つまり、日本の「白」とは、日本ならではの美に対する思想の一端をあらわしているとも考えられるのである。
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