「景観規制と表現の自由」
「経営労務ディレクター2015・9~10月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著〜
今まで、このコーナーで、「街の景観」について何度か取り上げてきた。建物の外観の色彩は、誰もが目にせざるを得ない性格をもつ以上、良好な景観形成にとっては重要な要素であり、一定の規制は必要であると述べてきた。実際に2005年に施行された景観法では、建物などの形態や意匠も制限できるとあり、色彩の基準も、各自治体が法的根拠の下、定められるようになった。
しかし、その一方で、住民の中には、「なぜ、自分の持ち家なのに、自分の好きな色を使えないのか」といった声も聞く。個人の所有物であるのだから、自分の着る洋服も住む家も、自由に色を選んでもいいだろう、といった思いがあるのだろう。街の景観に関心はないが、規制があるので仕方なく諦めた、という人達もおられるようだ。規制する側の自治体などは、建物の外壁については、公共的な側面をもっているのだから派手な色を使わず、住民自らが周囲の景観と調和した配慮を行ってくれるならば、それに越したことはないと考えている。行政自らが規制をかけていくことを好んで行っているわけではない。
景観法の2条において、「良好な景観は国民共通の資産であること、適正な制限の下に、その形成を図らなければならない、」といった、法の基本理念のことが書かれている。はっきり言って、もし、日本の景観が良好であったならば、このような法律は必要なかっただろう。過去に多くの景観に関わるトラブルが発生し、中には訴訟になったこともある。
しかし、ヨーロッパへ海外旅行された人が、帰国後に言われることは、「ヨーロッパの街は美しい。日本は、雑多な色に溢れていて酷いね」と。ヨーロッパの街並みが、なぜ美しい景観形成や維持がなされるのだろうか。それを想像して頂きたい。その背景の一つには、厳しい規制があると言われている。たとえば、フランス国民は、個人の表現の自由を強く主張する姿勢があるように見受けられるだけに、上からの規制に従うことに対して、一見、相矛盾しているようにみえる。
これについては、以下のように考えられないだろうか。フランスの人々にとって、何よりも死守しなければならないのは、表現の自由を国家権力に阻止されないことである。自分達が暮らす街の景観の統一感とは、国家権力に対峙する際に必要な市民の連帯意識が存在することの表明だとも考えられる。
一方で、日本は街並みの統一性について、特に一般住宅街については、それほど考える人は多くない。街並みのネットワークが失われつつある街も多いなか、過去、日本では、国が行う施策に抗議する市民に対しては、彼らの薄い紐帯を切り取り、やむなく懐柔された人を国家権力の側につけていく方法をとってきたことがある。そうして大型公共事業がすすめられてきたこともある。しかし、過去に、市民自らの手で国から表現の自由を勝ちとった歴史をもつ国は、国家権力者の施策を常に監視している。自らの生活を脅かすことは、連帯して声を上げていくのが日常になっている。そのための準備は、日々怠らないのである。
日本では、2015年9月19日、政府によって立憲民主主義を蔑ろにされた。それを目にした国民は、国にお任せでなく、市民が政府を監視することの重要性を痛感した。そのお陰で、皮肉ながらも、遅まきながら本来の民主主義が芽生えてきつつあるようにも見える。私達の自由な生活を守るために、今ある街づくり共同体に加え、小さな市民共同体もできていくだろう。その中で、景観は無関係ではない。自らの街のあり方を考え、自らの街の景観も考えてほしいと願う。
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