「色彩感性を競う貴族達」
「経営労務ディレクター2013・5~6月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著〜
前号の奈良時代から時を経て平安時代になると、色彩文化も大きく様変わりしていく。この時代は、荘園的土地所有を行う特権階級から搾取される農民が存在し、その上で豪華な貴族の暮らしが成り立っていた。今回は、その貴族文化における色彩について述べていきたい。
国家統一に色が用いられた奈良時代とは異なり、平安時代は国家の枠組みが成立し、唐風文化と調和をとりながらも個人の生活を享楽するために色が自在に用いられることが多かったのが特徴である。その中で特筆すべきは、平安時代の統率者が藤原一族であり、その繁栄を願って注ぎ込まれた、あらゆるものが、この時代特有の文化となり、「色彩」もその中で大きな位置を占めていたのである。
まず、この時代の色彩の大きな特徴としては、唐風の色彩と異なって、この国の風土を背景にして、自然界にある微妙で多彩な色が生み出されていったことである。また、それらの色を襲ねの色目と呼ばれるように、衣服の中で重ねることで色彩美が創られていったのだが、これも移りゆく季節の時々の自然の植物の色を写しだした結果である。
また、前回で触れた禁色について大きく変化が生じたことも、この時代の特徴である。もともと国家秩序のために人々の生活を規制する目的で行われてきた禁色が、貴族の個人の奢侈生活が盛んになるにつれ、単に経済的に行き過ぎたこととして捉えられるようになり、その意義がなくなったのである。律令制の時代に制定された位色も混乱をなしていた。国の政権が藤原氏の中でも道長一人にすべてが集中することになったのであるから、 冠位について関心が薄くなるのは当然の帰結であろう。
特に注目すべきは、当時の禁色の問題は、紅染めに集中したらしい。紅染の濃色について、一切の禁令が度々だされたのも、その禁令自体には効き目がないほど、紅色の虜になる人達が多かったからである。他の色も濫用されてはいたが、紅色が鮮やかで眼にとまりやすかったことが、禁止の一つの理由かもしれない。藤原氏の絶大な経済力のもと、競うように貴族の奢美な生活が推進され、紅色は、それらのバロメーターとも言える色だったのだろう。
その中で女房達も装束に力を注いだのは当然で、配色の効果を考えて、いくつもの色の衣を重ねて着ることを行い、中には、儀式の間、30枚以上も着て坐っていた為に立つことができなくなった人もいたため、このありさまには、道長も「あさましく珍しいことである」と立腹したらしい。
しかし、高貴な色の紫と独特な魅力を放った紅色以外に、多くの淡い色がつくられ、重ねの色目にも対照的な配色でなく、穏やかな配色が使われたのも、この時代の特徴である。おそらく推測するに、これは、この国の風土の特異性、いわゆる四季の穏やかな移り変わりが背景にあるのではないだろうか、と思われる。唐を模範として国家体制を築いた後、それら外来文化だけでなく固有の文化を花開かせていったこの時代において、四季それぞれの多くの自然の植物を目にしながら色を創り、季節に合わせて色目を使う色彩美への感性を養うことが貴族には求められたのかもしれない。
枕草子の中で、清少納言は「すさまじきもの(もってのほか)」として「三四月の紅梅の衣、八月の白がさね」と言っている。季節外れの衣装合わせには手厳しい。藤原道長が莫大な経済力だけでなく文化的な才能のあったことが、当時の美を追求する貴族文化を語る上で重要な要素だろう。色彩美が咲き誇った所以も、自然美だけでなく、それを貴族が応用するだけの感性が、そこにあってこそかもしれない。
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