「眼の働きが変わる?」
「経営労務ディレクター2014・5~6月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著〜
この数年、暗い場所を歩くことに少々の抵抗を感じるようになった。一人で夜道を歩く際の防犯を考えてではない。人と一緒に歩く夜道であったとしても、何かしら心もとない。いわゆる、暗い場所に対する眼の反応が、以前よりも鈍くなったような気がするのである。
以前、大阪市内の繁華街の近くに住んでいた時。深夜であっても、駅から自宅までの途上で暗いと感じる場所がなかった。店舗のディスプレイライトやネオンサインが、普通の住宅街にくらべて非常に多かったことが影響しているだろう。まして、自宅でも真夜中までパソコンに向かうことが多いため、室内外を問わず、光あふれる環境の中、生活していた。
その後、転居し、普通の住宅街に移ってからしばらくは、夜は、これほど暗かったのか、と驚愕したことがある。自分より高齢の方とご一緒に歩いた際も、私の方が、足元がおぼつかないことがあったほどである。
このようなことを書くと、眼の暗さへの順応性が働いていないように受けとめられるかもしれないが、本来、人間の眼は、すばらしい感度をもっており、どうやら0.0001ルクスの桁の世界まで見えるだろうと言われている。カメラと違って、人間の眼は、環境がどうであれ何とか見ようとする働きをもっているのである。人間の眼には2種類の杆体と錐体という視細胞があって、これらが働くことで、どのような明るさであれ暗さであれ、眼の働きは機能するのである。昼の明るい時間帯では、色を認識する錐体の働きによって解像度の良い映像をとらえることができる。ところが、夕方、暗くなるにつれて、錐体の働きが弱まる代わりに杆体が働くようになる。そのことで、色自体は認識しなくとも、暗い環境に適応するだけの感度が働くようになる。こうして、人の眼は、すばらしい順応性をもって人間の生命を守るようになっているのである。
だから、私が暗さへの反応の鈍さに戸惑っていたとしても、ある程度は働いてくれているのである。とは言っても、室内ではパソコンに向かい、一歩、外にでると、夜中でも光が煌煌とした都市生活の中での眼の働きは、昼は明るく、夜は暗さをあたりまえとしていた時代と同じであると言い切れるのだろうか、という疑問は残る。
谷崎潤一郎の「陰影礼参」の中に次のような文言がある。「われ等は何処までも、見るからにおぼつかなげな外光が、黄昏色の壁の面に取り着いて、辛くも餘命を保っている、あの繊細な明るさを楽しむ。」今、私達は、このような微妙な光を感じることができるのだろうか。また、「どうも近頃の我々は電燈に麻痺して、照明の過剰から起る不便ということに対しては案外無感覚になっているらしい。」とも述べている。「陰影礼賛」は昭和8年の作である。その頃、すでに電燈の明るさによる弊害を語っていたのである。谷崎が、今の社会の光の洪水を目にしたら、なんと言うだろうか。
現代の都会人は、眩しいということに対しての耐性がある意味、強くなっているのかもしれない。一方でそれは、谷崎の言う「おぼつかげな外光」を求める感覚が弱くなっているとも言えるのではないだろうか。
色に対する感覚も、社会の変化に応じて変わっていくだろう。光色あふれる環境下で、眼が、以前と同じ働きをなすのか、あるいは、それを感受する脳の受けとめ方が変わっていくのか。手で実際に触れるこのとのできる色と付き合ってきた過去2000年間の色の感性は、どうなるのか、それが、光の色に慣らされることで人間の感覚はどうなるのか。疑問はつきない。ただ、谷崎の言う繊細な明るさが、今でもこの世から失われたわけではない。そこに美しさを感じる人も少なくはないだろう。しかし、社会の変化に伴い、人間の色彩感度も移り変わっていくことは否定できないように思える。
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