「言葉について〜色名から考える〜」
「経営労務ディレクター2015・1~2月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著〜
雀色時(すずめいろどき)」という言葉がある。夕暮れ時に日が沈み、西の空から次第に茶色か黒い色をした雀の羽のような色になって、だんだん暮れていく頃を言うらしい。今では、耳にしない言葉である。
今回は、色の言葉について、具体的事例に触れながら考えてみたい。江戸時代の二大流行色は「茶」と「鼠」だった。「茶色」という色名の背後には、茶道がある。室町時代に始まった茶道が、江戸時代には一般の人々の間にもたしなまれてきたことが影響している。当時の「茶色」は、今の私達がイメージする色だけでなく、煎茶と挽茶の色を基調にして、その間に含まれる色を指していたようで、今よりも、さまざまな色あいの茶色があったようである。「鼠色」は、ネズミはどこの家にも住んでいたらしく、それだけ最も身近な動物の灰色味を帯びたクールな色を包括的に「鼠色」といったそうである。
しかし、「茶色」や「鼠色」といった地味な色が、なぜ流行ったのだろうか。一つは、当時、幕府は庶民達に華美な装いを禁じていたため、それが影響したと言えるだろう。もちろん、表から見えない着物の裏に、派手な色を使ってそれなりの楽しみ方はしていたらしい。しかし、茶色の場合は、地味だけでなく、その背景には、今に通じる、物を流行らせるカラクリみたいなものが垣間みられる。茶色に、さまざまな色の名前がつけられたのは、その色が世の中に周知されるほど、流行っていたからだ。その過程は、今の人気商品がつくられるケースと似ている。たとえば、人気タレントが身にまとうファッションによって、その関連商品がヒットすることを想像して頂けたならばわかりやすい。当時は、庶民の楽しみの一つであった歌舞伎の人気役者が瓦版(今で言う雑誌など)に登場し、人気に拍車がかかり、その役者が好んで着た色が流行ったらしい。
たとえば、「芝翫茶」は芝翫(三代目中村歌右衛門)が好んできた色、「梅幸茶」は梅幸(初代尾上菊五郎)が好んで用いた色など数々ある。庶民がいかに歌舞伎を楽しみにしていたかが伺われる。なかでも瀬川菊之丞二代目は人気女形で、彼の用いた衣装等の色を「路考茶」(路考は俳号だった)と呼んでいた。長い間にわたって流行し、江戸中の女性達に人気を博した色らしい。
上記の色の名前は、今は使われることがない。色の名前とは文化そのものであり、それは時代の様相を表すものでもある。流行り言葉があるように、その時々の様相を伝えるのは、言葉である。色名も、それらの言葉の一つである。日本の色は、日本の言葉で表すことで、色名の背景にある文化も伝えることができるのである。いわゆる自国の文化を伝えるのは、母国語である。ある国で使われている言葉(母国語)というものを掘り下げていくと、その国の根幹をなすものに出会えるのではないかと思う。だから、私達が他国の文化を本当に知るには、その国の母国語を勉強する必要もあるだろう。
最近のグローバル社会において、日本国内でも、英語で教育を行うことが、当然のごとく思われがちである。もちろん、公用語として英語を媒介にし、海外の国々の人達とコミュニケーションをとる手法に問題はない。現段階では、それが相当だろう。しかし、日本は、明治初期に、母国語で高等教育を受けることができる方針をとった。そのため、誰もが望みさえすれば、専門性の高い知識も手に入れることができた。母国語で高等教育を受けられない国もあるが、それは悲しいことである。グローバルな社会では、他国の文化の礎である言葉を尊重はするが、まずは意思の疎通を図るために、お互いに英語を手段として用いるにすぎないものである。それは、英語に置き換えることのできない日本語があることを知ることでもある。日本の色名も英語で表現するのは難しいだろう。だからといって、その色名を切り捨てることがあってはならないのである。
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