「未来に向けて考える」
「経営労務ディレクター2012・7~8月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著 ~
「虹の会」という、少々ロマンティックな名前の団体があった。今回は、この虹の会を取り上げることで、多少大袈裟な表題について触れたいと思う。この会の発足は戦争の最中の昭和18年、活動期間は20年までの、いわゆる戦局が非常に厳しくなってきた頃と合致する。つまり、昨年の大震災、原発事故を受けて、我々が日本の未来に向けて思索せざるを得ない今日、非常時における虹の会の活動を振り返ることで、少しは何らかの参考になればと考えた次第である。
始め
に、虹の会が発足する経緯を簡単に触れておきたい。この会の歴史経緯については、小町谷朝生氏(現在東京藝術大学名誉教授)が日本色彩学会誌v20.1996に書かれた「虹の会」から一部分引用し、述べることとする。
昭和18年に政府の指令によって、日本全国の自然科学分野の研究者を一つに結集するための科学研究団体である「研究隣組」が組織された。戦時中であることから当然、その趣旨は、日本を究極の勝利に導くため、科学研究の隣組を組織し、一致団結して科学技術の優秀性を発揮させるというものであった。しかし、その幹事の一人である東京芝浦電気研究所員の西堀榮三郎氏の書いた「研究隣組精神」の中では非常に根本的なことを述べている。「戦時多端のおり、貴重な費用と時間を時局の要請にあわない主題には使えない。だが、研究とは未来性を多分に含むものであるべきだ。研究主題の軽重を浅薄な知識で批判するのはよろしくない。」
戦争末期に多くの犠牲者をだすことになったのは、当時の政治家や軍部上層部の「今更やめられない。」という思考停止状態が招いたことは、今や政治や歴史学の研究者の著述からも明らかである。その中にあって、当時、研究に未来性を必要とした人達がいたことは、今もって救われる話である。そうした研究隣組の中で色彩研究を担当したのが「虹の会」であった。昭和20年2月の第12回会合まで開催され、昭和21年に解散された。そうした色彩研究を専門とする集団の活動は、その後、色彩科学協会が結成され引き継がれた。これが今の日本色彩学会の前身である。
現在、日本のエネルギー政策について、政府は多くの委員会で検討をすすめており、会議内容すべてがネットで公開されている。今回の原発事故を受けて、エネルギーを通した新たな日本の社会像を議論することが目的の総合資源エネルギー調査会基本問題委員会もその一つで、すでに25回も開催されており、それら膨大な会議全容の幾分かをみると、愕然とさせられるほど、本当に日本の未来に目を向けているのだろうか、という疑問を抱かざるを得ない委員(有識者)が多いことである。世界中の研究者が、原発にどれほどの安全対策を施したにしろ、未規定のリスクが必ず残ると発言している。そのような原発施策からの転換をいかに行うかを議論するはずの委員会の中で、有識者会議のメンバーの多数派(研究者を含む)は、今までの既得権益を手放したくないがために産業構造を変えられない人達、すなわち今に至っても原発を動かさないと日本経済はダメになる、と信じている人達であることをみると、またもや戦争末期の思考停止状態となった大本営参謀本部の人達と同様に見えてしまうのである。まるで、未来を考えまいとしているかのようにも思われる。
原発推進派が危惧する日本の再生エネルギーのポテンシャルについては、地熱発電では、企業が世界でも優れた技術を海外に供給し、また、排熱処理の高い技術ももっている。前述とは違い、未来を見据えている研究者がいるから、これらの技術革新もできるのである。
日本色彩学会は、虹の会発足後、来年で70周年を迎える。私自身も、日本色彩学会の会員の一人として色彩研究の一端に携わる日々の過程で、未来性をもつ課題に目を向けているのかどうかを、改めて自問自答すべき時にいる。
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