「鞆の浦裁判」
「経営労務ディレクター2009・11~12月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著 ~
2009年10月1日「鞆の浦訴訟」で広島地裁は鞆の浦の景観を国民の財産ともいうべき公益であると判断した。景観への影響が重大だとして埋め立て工事を差し止めたのである。非常に画期的な裁判である。珍しいという意味ではない。今までも景観は公共のものであるのはあたり前のことにもかかわらず、それについての公的意識が社会的に低いと言わざるを得なかった。
それはなぜか。景観をどのように感じるかは個人個人の感覚によるものが大きいと捉えられ、それが美しいという理由で民間の財産や生活者の利便といった経済優先の考えにストップをかけることができないという理屈が存在していたのである。そこに、今回の判決は景観を考えることに対して明るい日差しがあたった、といって良いだろう。
作家五木寛之は鞆の浦のことを次のように表している。「石畳、大きな蔵など、町に風格が感じられる。なによりもすばらしいのは、これが当時の様子を再現したものではなく、百年から三百年もの長い歴史を刻んできた本物の町並みだということだろう。歴史がそのまま残っている。」このような鞆の浦の風景は見る人の心の財産になるのではないだろうか。
良好な色彩景観だと皆が認める主な要因には、見る人がそこに地域の特性を感じていることがあげられる。地域特性とは通常、もともと地域に存在する自然環境や歴史、伝統的なものを感じる街並みや文化を言っているのである。
その一方で、この地域の特性とは、そこに住む人たちにとっては日常的なものであり、特段それを地域の特色だと意識することは少ないため、それを壊して新しいものができ、都会の雰囲気が持ち込まれることに不自然だという感覚すらもちえないことがある。そのようにして、道路をつくり、郊外型ショッピングセンターができ、便利だと喜ぶと同時に地域の中心部にあった従来の店舗が店を閉じ、人通りが途絶え、街の空洞化が起きてしまっている。そうなってから街の活性化について考えるようになっているのが現状である。
人がどのような土地で育ったかということは、その人の感性がどのように育まれていったか、ということにしばしば影響を与える。もちろん良し悪しの問題ではない。しかし、日々の生活が都会の人達にくらべてコンビニエントでなくとも、美しい景観の中で育ち、そこで物事を感じ考えたということが、それぞれの心の栄養になることは否定できないだろう。
この鞆の浦については、今回の事業に賛成する人達もこの景観を価値あるものとみなしている。日々の生活の不便さを解消したい思いを誰も咎めることはできない。ただ、今回の判決文では、この事業以外に交通渋滞を緩和する方法を調査、検討したとは認められない、とあるように、もう少し知恵を絞り、今のインフラの使い方を考えることで改善できる面もあるのではないかとも思う。
土木事業の背景にはさまざまな利害関係が存在する。今回のことは生活の利便さをとるか歴史ある美しい景観をとるかの問題ではなく、土木事業を基にして街をつくっていくか、文化を守り育てることで街をつくっていくか、が問われているのである。創造的な街づくりにはどちらが必要か考えてみたい。美しい景観は一旦失えば、二度と取り戻すことはできない。私達は、数多くの美しい景観を経済効率の名の下で失ってきた。今回の判決はそこにようやくストップがかけられたと思いたい。
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