「色の氾濫」
「経営労務ディレクター2014・11~12月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著〜
「色の氾濫」という言葉が、いつ頃使われるようになったのか、定かではない。1959年に著された「色彩調節の新展開」の論文の最後に「街をみても、家をみても、人間の着飾っている流行色をみても、またシッ走する自動車の色も、現代は色・イロのハンランである。(略)この色彩のハンランは、一体だれが得するのか」という言葉が書かれているらしい(小町谷朝生著「色彩の発見」より)。日通が黄色のトラックを走らせたことについて、議論が飛び交い、「目立つは勝ち」という論理が勝利したらしいのだが、この黄色は、当時の人々にとっては革新的に映っただろう、と想像できる。
戦後、「色彩調節」という名の下に、色が機能性をもって使われた。それなりに使用目的に応じた色彩を用いることで、暮らしやすい生活を目指したのである。しかし、その結果、次から次へと色が登場した。もちろん、色の機能をおおいに利用した「色彩調節」によって、物を目につきやすくし、目の疲れを少なくする作業環境をつくることができたのだが、その延長線上に行き過ぎた色の使用があり、「目立つは勝ち」にもつながったのかもしれない。
色彩のもつ作用に、訴求的な意味合いがある。つまり、色を用いて訴えかけることである。たとえば、最近では、ソニー株式会社がインドにおけるテレビ販売戦略としてうちだした「インド画質」もそうだろう。ソニーは「インド人視聴者は、鮮やかな色がより鮮やかに見える画質を好む」という傾向を探りあて、マレーシアで生産したインド向けの薄型テレビを出荷段階で、鮮やかな色がより鮮やかに見えるように、特別に初期設定しているらしい。
これは、インド人特有の感覚と片づけられる話ではない。まさに、人間の求める色を実際に見えている色だとして、ディスプレイ上に自由自在に表すことができうることを、改めて主張したにすぎない。現在、ディスプレイに映し出される色の多くは、実際に目にした色よりもあざやかである。光色の再現技術が高くなるほど、より強い色あいが画面に映し出される。それを我々が求めているからである。自然の色は、ディスプレイ上の色ほどあざやかでないのだが、両者を同様に感じるように、我々は脳のどこかでごまかして見ているのだろう。商業レベルで色を戦略的に訴える、ということは、いかにあざやかな色を表現するか、ということなのである。この傾向はどんどんエスカレートしていくに違いない。
しかし、こうした色の有り様を危惧はしているが、拒絶しているわけではない。私達の感覚が、あざやかさを求める方向にエスカレートしていく側面があるのは、致し方ない。色のあざやかさは、一時的に人の気持ちを楽しくさせ、少々興奮した気持ちにもなるだろう。こうした色があふれていくことに際限はない。そのこと自体が、色のなせる性格といっていいだろう。
もともと現実の色を、いかにして再現するかということで、光色の技術が開発されてきたのだが、今や、人々の求める色を映し出すのが、画像の役割となったならば、現実の色とは何なのか、といった疑問が浮かび上がる。画像の色は、現実の色と異なっているのだが、画像の色と現実の色を同様に見ているケースも見受けられる。すでに、光の色が、現実の色の見えに、かなり影響を与えているのである。
これからも、現実の世界とネット等の画像の世界を、行ったり来たりしていく現代人にとって、色の感覚は、どのように変容していくのだろうか。現実の色と画像の色が異なることの認識を、現代人はいつまで持ち続けられるだろうか。逆に、画像の色と現実の色が、脳で区別できなくなることもあるのだろうか。近い将来においては、それこそ色の氾濫どころでなく、仮想と現実の色の境目の曖昧な違いでさえも意識せずに、色を眺めているのかもしれない。
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