「グローバル社会を考える ~襲ねの色目から~」
「経営労務ディレクター2012・1~2月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著 ~
今後の企業経営のあり方を語る中で、必ずと言っていいほど、「グローバル社会で生き残るためには・・」といった話が登場する。社内の公用語を英語にする、と経営者が公言することも、良否は別として、おそらく生き残りへの模索の一端なのだろう。
タイの洪水による災害の際に、改めて知った人も多いだろうが、現実に、多くの日本企業が海外を拠点としている。しかし、ここで冷静に考えなければならないのは、企業経営者達が口にする「会社が生き残っていくためには・・」という言葉の意味である。これは、言い換えれば、世界中の企業と競争しながら、どこかの国で利益をだすことによって会社を維持するということを意味しているのである。どこかの国というのは、人口減少がすすむ日本でないことは推測できる。
ここまで聞けば、おそらく冷静な日本人ならば、「このままでいいのだろうか?」と、不安を感じるのではないだろうか。その不安とは、日本が世界に取り残されないか、ということではなく、グローバル社会が加速していき、企業に利益がでても、日本国内にいる日本人が恩恵を受けられない状況では、社会が社会として成立しなくなるのではないかという危惧である。
何もグローバル化を否定するつもりはないが、日本から飛び出して世界に追随するだけでは、将来の明るい兆しが見えるとはどうも思えない。むしろ、こういう時こそ、日本が日本でありえた本来の姿を見直し、その上で世界と向かい合った方がいいのではないだろうか。今回は、その点について、日本文化の側面から考えてみたいと思う。
かなり遡ることにはなるが、平安時代の色彩文化に襲(かさ)ねの色目と呼ばれる配色方法があった。自然の植物の色を取り合わせて季節感を表した衣裳の色を、貴族の人達は身にまとっていた。これについては、季節ごとに、さまざまな襲ねの色目が伝えられているが、この方法が生れたプロセスについて、あくまでも推測ではあるが、触れてみたいと思う。
当時は、宮廷サロン文化が栄えた頃で、宮廷行事の中に歌合せがあったことは有名である。菅原道真は「新撰万葉集」において、和歌と漢詩を交互自在に並べた方法をとっているが、それをさらに発展させたのが、藤原公任が編集した「和漢朗詠集」である。自分の娘が結婚する時の引出物として詩華集を贈ることを思いついて創ったものと言われている。漢詩は楷書・行書・草書を交ぜ書きにし、和歌は草仮名である。これらを季節ごとの部立にして、細かく組み合わせた和漢の合わせが、王朝文化の様式だったとも言える。それを創る過程では、おそらく多くの詩や歌を合わせた上でかさねていき、それらを競わせることによって、最後には優れたものを揃えていく、という形式があったと言われている。
同様のことが、襲ねの色目の世界が展開する過程においても、行われていたのではないだろうか。まずは、季節の色を合わせて(配色)、かさね、そこから選別を行い、そして、季節の移ろいに合わせて揃えていく。それらの手法を経た上で、襲ねの色目が次々と誕生していったのではないだろうか。さらには、その色目を表と裏にかさね、そこに光があたり透過して生れる色を楽しんだのである。
このようにして多様なものを、いくつかの技を経て包括していくことにこそ、日本独自の手法があったのだろう。それに対して、今の社会では効率化の名の下で、不必要と判断したものはどんどん切り捨て合理化をはかる、といった手法が良いとして考えられている。 はたして、この手法は日本に合っているのだろうか。
漢文から片仮名、和歌から平仮名を派生させ日本の文字を構成して千年以上になる。何かをもって何かを捨て去ることをせずに、むしろ、それらを融合させ、たとえ相対するものであっても、それをかさね合わせることでイノベーションを行ってきた。このような手法の下で育まれたのが、日本文化だろう。それを顧みずに、世界に取り残されないための眼前の方策ばかり考えると、それこそ、日本自身が日本を置き去りにすることになりかねない。もう少し丁寧に、今のグローバル社会との付き合い方を深慮すべきではないだろうか。
|