「詩人・大岡信の色への視点」
「経営労務ディレクター2017・7~8月号」より
~カラーコンサルタント 成田イクコ著〜
詩人の大岡信氏が亡くなられて、この4月で4年が経つ。手元に氏が編者の著書である「色」、「日本の色」がある。久しぶりに読み返してみた。その中で、大岡氏は日本の詩歌に登場する色の世界には視覚的な色だけには満足できず、触覚的な透視力というべきものが絶えず鋭く働いていた、と述べている。さらに日本の詩歌における「色のあらわれ」をあれこれ考えているうちに、日本人は「色」を純粋視覚の見地から感じとるということがあまりなく、むしろ触覚的な見地からこれをとらえるということに、本能的に習熟してきたのではなかろうかという強い思いも述べている。
これは、色彩情報の分野の中で、触覚と色の関係を科学的にとらえることが最新の研究テーマの一つであることをみると、いろいろと考えさせられるものがある。つまり、古代の日本人がすでに触覚的に色をとらえていたことを、今では科学的に実証しようとしているのである。かなり回り道をして現代人は、もう一度、色と触覚を繋げようとしているのかもしれないが、古の詩歌をひもとけば、どうやら日本人の色の捉え方は、視覚的に認知するだけの色ではなかった、ということがわかるのである。
今でも日本では植物や顔料の名前を色名に使う。たとえば紅色、桜色、萌黄、利休鼠 等。大岡氏は言う。「自然界のとりわけ植物の名と姿は、私たちに色と錯覚されるような形で頻繁にあらわれる。私たちは『色』の代わりに『もの』を直接さし示されているのである。」具体的にはうすむらさき、という代わりに、藤袴や萩や葛を、黄という代わりに、山吹、女郎花、菊を、碧なら桔梗、朝顔、紫陽、竜胆を、その他さまざまある。これら、ものをさし示して表現しているのは、個々の自然物の物質感とともにしか考えられない色なのである。白いや青いという形容詞をもって色を表現することは昔からあったのではないらしい。
大岡氏の説を読みながら、アフリカの後進国で生活する人たちが、色名を牛の色や自然の風景にたとえて色名を語っているという話を思い出した。おそらく文明の利器が存在しない自然界の中で生活することは、自然を五感で直接とらえて、時々の色をそこにある物や自然界と結びつけて表現しているのだろう。特に日本人は、抽象的な形容詞を加えて系統的に色を表現するのではなく、古語の色から心の色をあらわすものとなった。以下の歌では「身にしむ色の秋風」という表現は、現実の色彩ではなく心の風景をあらわしていると言っていいだろう。
白妙のそえのわかれに露おちて身にしむ
色の秋風ぞふく 藤原定家
色とは、視覚だけではなく心模様と身体感を表すものであったことは古の詩歌から読み取れる。大岡氏はさまざまな詩歌を取り上げ非常に深い洞察力をもって、色の深淵の姿を語ってこられたのである。
|